武道ライター山里栄樹のブログ

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武道武術の極意「視点変換」

 ウクライナ戦争が勃発して早や一年が経過しました。未だ終戦の兆しも見えず、国連をはじめ国際社会は混迷の最中にあるようです。
  21世紀の現代において前世紀初頭の古典的な戦争が東ヨーロッパで行われている事実に改めて人類の愚かさを感じさせられます。悲しいかな小生がこよなく愛する武道武術の成り立ちと起源は、戦争の歴史そのものと言ってよいのであります。日本では中世まで武道武術を“兵法”と言い表しておりました。その名に示す通り、兵器の使用法や個人の戦闘技術はもとより戦争を優位に進めていくための戦術戦略に至るまで極めて広範囲にパッケージ化された軍事の古典文化なのであります。
 そのなかには様々なノウハウや方法論が包括されておりますが、それらのコンセプトは「敵と我、相手と自分との関係性~」に言及できるのであります。古人いわく「我あって敵在り、我なくして敵無し」と、自分の立ち位置や振る舞い様によっては相手が敵にもなれば味方にもなると説いております。また、必要以上に敵に脅威を与えることを戒め、敵であっても常に礼節をもって接するという言い含めもあります。
 「相手の立場に立って物事を考える」という視点を変えた発想「視点変換」のトレーニングが武道武術の形稽古であります。この場合、相手(敵)の立場での視点=2人称視点に変換した発想のもとで試行錯誤を繰り返して技や術を習練します。古流剣術の形稽古は敵となる打太刀の攻撃を我となる仕太刀が回避・制圧していくというシュミレーションです。当初は仕太刀として習練を重ね、それに習熟すると今度は打太刀となって深く術理を探求していきます。古人いわく「敵を知り己を知らば百戦危うからず」なのでありますな。
 2人称での視点変換を形稽古で重ねていくうちに、いつしか敵と我の攻防を傍観しているもう一人の自分の視点に気が付きます。これが3人称視点であります。囲碁に「岡目八目」という諺があり、碁盤を挟んで対局している棋士よりも傍らの見物人のほうが八手先の展開まで見通しているということであります。当事者よりも傍観者のほうが物事の本質がよくわかり、的確な判断ができるという例えのひとつです。武道武術の形稽古では、戦闘を局面のみならず全体として大きくとらえていく武術眼(武道眼)が養われていくのであります。
 この3人称の視点変換は、形稽古を繰り返すことの他に傍らで見学する見取り稽古を重ねることでさらに精度を増していきます。精度を増した確かな武術眼をもって広く物事の見識を深めていくと、武道武術を指導教授ができる師としての器と格が自ずと備わっていきます。

 そして、師匠として親身になって弟子を教え導く、まさに親身になることとは「木の上に立って見守る=親」という3人称視点に身を置くことなのでありますな。師の3人称視点とは、弟子を段階的に成長させていく長期的な展望でもあり、数か月先さらに数年先の将来を見据えたものであります。
 物の見方は物事の考え方に直結しており、視点変換は人間の発想そのものを根本的に大きく変えてしまうものであります。巷では、2人称による「上から目線‥」が他人を上から見下して自分を優位に置いた発想のように考えられておりますが、けしてそうではありません。これは視点変換のためのワンステップなのであります。その先にある3人称の視点変換「見渡せる目線~」で、全体を視野に置いた将来展望の発想へと繋がっていくのでありますな。

 居合の極意のひとつに、目前の敵を透かし見て遠い山を望むという「遠山の目付」がありますが、このことを説いているように思います。

居合の形稽古は一般的に一人で行う単独動作によるものであるが、仮想の敵を想定しての2人称視点、攻防の全体像を展開していく3人称視点、イメージのみでの視点変換で行われている。

極意「遠山の目付」には、「見渡せる目線~」3人称の視点変換により先々を見据えた将来展望の発想を!という教えも説かれているのでは‥

 

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